逝く者、いくもの 前章

一章

 誰かが渡島富士が見えると叫んだ。
 それを聞いた小五郎は、まだ剣術道場の住み込みでしかなかったころに見た一枚の絵を思い出す。
 黒船の来襲により国は揺らぎ世相は一変し、いつしか露西亜に近い蝦夷地の北方警備の重要性が声高に叫ばれはじめた……そんな時代の移り目に出会った蝦夷の絵だった。
 かの地にも富士に似た山がある。ただそれだけを意識し、当時の自分の思考はすぐに露西亜のプチャーチンが長崎に来訪したことに切り替わっただろう。まさか十数年後に、実物を見ようとは夢にも思わなかった。
 個室から壁伝いに歩き、旗艦回天の甲板に立つと、すぐに突風が吹き付け軽く体が揺らいだ。風には雪が含んでおり、防寒具をつけていないこの身は一瞬にして寒さが支配する。
 そんな中でも、強烈に渡島富士を見たいと思った。
「立ち歩くのはまだ無理だ」
 元将軍家奥詰医師の高松凌雲が甲板に姿を現した。自分を追ってきたのだろう。
「君は労咳を患っている。高熱からは抜けたかもしれんが、まだまだ予断は許さない状況だ」
「……分かっています」
 小五郎はマストにしがみついて態勢を整えまっすぐ前を見た。
 嵐の中、眼前は揺らぎ定かならず。渡島富士の片鱗すら見えはしない。そう目をこらしても、どこまでもこの目に映るのは深く暗い夜の海だけだった。

逝く者、いくもの 前章1-1

 さかのぼること三月ほど前。慶応四年七月初旬。
 新首都候補地たる江戸の視察を終えて、京都への帰路の最中、小五郎は品川で山賊に襲われたが、間一髪で窮地を脱した。
 一人で十数人の山賊と対峙し、機を見て全力で駆けだし、どうにか山賊をまいたそのときには、ここがどこなのか小五郎にも検討がつかなくなっている。ただ、殺気はない。大木に背を預けて、ようやく体を休めることができた。
 左手には一つの腕章がある。山賊の左腕にあったもので、大木を背にして戦っている最中に、山賊の腕を片手で掴んで鳩尾に刀を入れたときがあった。そのときに相手の袖が破れたのだろう。小五郎はその後にすぐに逃げに転じたため、その布切れは無意識に握りしめていたようだ。
「彰義隊……」
 腕章は彰義隊のもので、名前は和田篤二郎とある。
 あの山賊は彰義隊の生き残りだったのか。それとも彰義隊を語って山賊働きをしていたかは知れない。
 その場で投げ捨ててもよかったが、姓が小五郎の実家と同じであったので、何気なく懐の中に入れた。同時に飴を一つ取り出して口に入れ、さて、と小五郎は立ち上がる。
 番屋に向かった大木喬任が援軍を連れて駆け付けているかもしれない。戻って大木と合流しなければ、と頭にはかすめるが、妙に東へと延びるまっすぐな道に気を取られた。
 引き返せば品川。この道を進んでいけばたどり着くのは、
(……みちのく)
 そこには戦場が広がっている。
 小五郎は周囲の気配を探りながら、先を急いだ。進むのは、品川へ引き返す西の道ではなく、まっすぐ伸びる東への道。

逝く者、いくもの 前章1-2

 日本橋に出て、そのまま奥州街道に乗る。ただひたすら東へ東へと歩は進む。
 陸奥を意識した際に、自分に「魔がさした」のかもしれない。理性も道徳も……自分という人間をどうにか形づけていたものが次々と崩落し、不意に「死にたい」と思ってしまったのだ。
 小五郎には幼馴染との誓いがあった。どれほどに苦しい現状に遭遇しようとも「自死」だけは決してしないというものだ。この誓いがあったからこそ、かの新選組に追われた日々を小五郎は歯を食いしばって耐え忍んだ。
 だが今となってはなんとも厄介な誓約となってしまった。
 小五郎は自らに問うた。今のこの身に先々に対しての希望があるか。未来はあるか。夢や願いはあるのか。
 国家に対しての夢はあった。人民の平穏のためにやらねばならないことも無数にある。だが自分自身の私的なことで何かやりたいこと、強く望むことはあるかと言うとこれは難しい。
 無意識に笑っていた。
(……殺して欲しい)
 それが唯一の願いだと気づいたとき、小五郎の中で音もなく何かが終わりを告げた。明らかに生から死に舵は切り替わり、自分を殺してくれる場所を思い描く。
 それは戦場しかないように思えた。
 この日ノ本で、今現在、戦闘状態にあるのは東北と北陸だけだ。会津藩を救う名目で結ばれた奥羽越列藩同盟と新政府との間で戦闘の火ぶたが既に切られている。
 この一戦は長引くと小五郎は考えていた。
 季節は七月。列藩同盟の拠点である白河城への攻撃が開始され三月ばかり。既に陥落は間近だと報せも届いていた。

逝く者、いくもの 前章1-3

雪が降る前に全ての決着をつけると板垣が息まいていたが、徹底抗戦の意思が固い会津を叩くのはそうたやすくあるまい。時はかかる。
(東北に向かおう。とりあえずは白河に……)
 奥州街道を北へと進み、七月半ばには白河に到着し新政府軍に一兵卒として紛れ込んで会津の戦場に向かおうと考えた。安易な考えではあるが、あまり深く考えない方が良いのだ、こういう行き当たりばったりの行程は。
 だが途中で体が動かなくなった。宇都宮で倒れこむようにして旅籠に入り、十日ほど寝込むはめになった。この宇都宮は数か月前に旧幕府兵との間で城をめぐる一戦があった場所だ。所々に多くの隊士が潜んでいるらしく、いろいろな噂が入ってきた。
 その中に品川に艦隊を停泊中の旧幕府海軍副総裁の榎本釜次郎が、徳川宗家の処遇を見届けた後に戦闘に参入するというものがあった。また白河より新政府軍はすでに進軍し二本松に向かっているらしい。この宇都宮からは馬を飛ばしても二本松までは早くて二日はかかる。到底追いつけない。
 気持ちは逸るが体は一向に良くならず、旅籠の女将の勧めで宇都宮の北の温泉に湯治に向かうことにした。ここで半月、小五郎は体の回復に専念した。
 これからどうすべきか。
 会津に直接向かう手も考えたが、各藩の寄せ集めの大隊の中には長州人も数多くいる。白河で潜り込むならそうは目立たないが、会津に直接乗り込むとすると悪目立ちをし素性が知られる危険性があった。戦闘中に紛れ込めば、とも思うが、できる限り知人と顔を合わせる危険は避けたい。
「とりあえずは白河まで……向かおう」

逝く者、いくもの 前章1-4

 白河まで行けば多くの情報が入るに違いない。会津入りが無理と判断したならば、方針を変えて仙台に向かえばよいのだ。かの地ももうすぐ戦場となろう。
 どうにか長旅に耐えられる体力を取り戻したことから、白河に向け旅立つ。ここから白河までは街道沿いに行くと三十里ほど。弱った体でも休みながら行けば四日でつくだろうと思った。
 小五郎は都を出る際に各方面から餞別を頂戴しているので、旅費の心配はなかった。山賊などに出くわしても落ちたとはいえ神道無念流の免許皆伝の腕は、引けは取るまい。
 さて奥州街道を北上していくには、山をいくつも越えなければならない。それは弱った体には酷であった。どうにか太い木の棒を見つけて杖替わりにしてゆっくりゆっくりと歩く。松尾芭蕉もこの道を下ったのだと思うと妙に感慨深くはなるが、今の小五郎は必死だった。
 四日後に白河につき、仙台口担当の軍が駒ヶ嶺で仙台と抗戦し撃退したと耳に入る。二本松も七月下旬に陥落していた。既に季節は八月中旬。予定よりもずいぶんと到着が遅れてしまったことが悔やまれる。
 もう一方の会津担当の新政府軍は進軍を開始し、二本松から会津に至る脇街道の母成峠で会津や旧幕臣の連合を打ち破っていた。既に会津若松城下に入っているとも聞く。おそらく会津は籠城を取るだろう。そうなれば砲撃戦が主だ。刀での斬り合いはほぼあるまい。
「仙台に向かうしかない」
 小五郎には新政府発行の関所を詮議なく通れる手形がある。そのため新政府が抑えている各関所はすり抜けてきたのだが、ここから先は敵地ともいえる場所だ。どう関所を抜けるかも問題だ。

逝く者、いくもの 前章1-5

 仙台までの道を探っていると、奥州街道を新政府軍が抑えているのは二本松までであることが分かった。それより先は譜代板倉家が治める福島藩があり、列藩側だ。新政府側の参謀の板垣と長州の大村益次郎が仙台が先か会津が先かで激論を繰り返した結果、仙台を後回しに、まずは会津攻撃と決したらしい。
 仙台に抜けるには街道沿いに行くか、海沿いを行くしかないだろう。白河から山伝いに海沿いに抜ける道もある。抜けた先の相馬藩はすでに降伏に至っているようだ。海沿いの駒ヶ嶺は新政府軍が抑えている。仙台より先に会津攻撃と決したため、こちらは現在小康状態となっているようだ。
 福島から仙台にいたる地元民しか知らない小道もあるだろうが、体力が消耗している今の小五郎には難所はできる限り避けたい事情もあった。列藩側の領地になると検問も厳しくなるだろうが、どうにかして抜けねばなるまい。
 ここで小五郎は少し迷った。
 新政府軍はほぼ全軍を会津に向けて進軍させており、仙台藩は完璧に後回しとなっている。駒ヶ嶺方面の兵力もそれほど多くないと耳にしていた。会津攻撃に時間がかかれば仙台との一戦はいつになるかしれない。
 ましてや仙台に向かうなら、仙台藩の徴募に応じるしかない状況だ。仲間である新政府軍に刃を向けることに一瞬ためらいが浮かんだが、小五郎が今まで生きてこられた要因である勘が仙台と告げていた。
 一番に危険な場所かもしれない。万が一にも新政府に関わる者と知れればどうなるか。
(……私は死ににきたのだ)
 小五郎は軽く笑った。

逝く者、いくもの 前章1-6

 どんな死に方になるかわからないが、おそらく確実に死ねるのは仙台行きと見た。
 問題は二本松宿の北だ。とりあえず小五郎は北上する。郡山は会津藩兵によって火が放たれたらしく宿場の大部分が焼失に至り、見るに無残であった。
 小五郎はこのころから咳に痰が絡むようになり、微熱が常に体を包むようになった。風邪だろうと言い聞かせて歩くが、無理が続かず宿場で宿をとることを繰り返す。
 二本松に入ると、往来などいたるところに銃弾や砲撃の跡が残り戦の爪痕が生々しい。
「少年兵がだいぶやられたらしい」
 そんな話も耳に入ってきた。
(戦に子どもを!)
 心底から何かが湧き上がってきそうになったが、小五郎はそれを留める。今の自分には必要のないものと割り切った。
 二本松では、ちょうどもぬけとなっている農家を見つけ、そこで一夜を過ごした。もうすぐ九月に入ろうとしている。所々で赤く染まりつつある葉が見え、季節の移ろいを感じた。
 情報は行きかう行商人から掴んだ。先に耳にした通り駒ヶ嶺方面は小康状態に陥り大まかな戦闘の気配はない。福島藩の動きは不気味なほどに静かと言える。
「今のうちに……」
 どうにか仙台まで、と思うが、福島藩内は小五郎が持つ手形では先に進むことはできないのだ。
 関所より離れたけもの道に入りどうしたものかとため息が出る。関所破りは避けたい。だが関所を抜けるため山に入り迷わぬ自信は小五郎には皆無だった。

逝く者、いくもの 前章1-7

 そんな中、夜陰に乗じてけもの道を身をかがめて進む一団が目に入った。遠目からもどす黒い顔は血が固まったものだと分かった。小五郎は今までの情報と周辺の地図を頭に浮かべ、おそらく時期から見ると母成から引き上げる列藩側の敗残兵と検討を付ける。
 一か八かでその隊に声をかけることにした。
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逝く者、いくもの 前章1 -8

逝く者、いくもの 前章

  • 【初出】 2020年5月28日 (16/12/20に仕上がっています)
  • 前章の終わり方が決められず、長らく迷いに迷って倉庫に閉まっていましたが、連載として出すことにしました。
  • 前章前編までは出来上がっています。後編が繋げるために苦労していますが、とりあえず前編だけアップすることにしました。
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 本編の前章となります。